寺院のご案内
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●光岳寺の由緒
光岳寺は、徳川家康を出生したお大の方が、広忠郷(家康の父)逝去後、松平佐渡守俊勝と再婚、1602年逝去(法号・傳通院殿蓉譽光岳智香大弾定尼)し、お大の方と俊勝の息子松平因幡守康元が、お大の方の菩提所として千葉県関宿に建立された事を初まりとしています。その後光岳寺は、松平家の移転とともに岐阜県大垣に移り、1624年信州小諸へと移りました。当時の領主松平憲良に随って来た真譽上人が、以前からあった松翁山芳泉寺を改め、天機山傳通院光岳寺とし、1870年に小諸城主牧野氏の菩提寺泰安寺を合併し、現在に至っております。この歴史が示すように、又、お大の方、松平憲良の位牌などを安置するなど、光岳寺は徳川、松平、牧野各家と深い関わりを持った由緒深き寺院であります。
●本尊
木造阿弥陀三尊像三体、木造十一面観音像一体、木造阿弥陀如来立像一体、千体仏が納められています。
●本道・境内
内陣、内外陣界の彫物、壁面は元禄期のもので、屋根には徳川葵、松平星梅鉢、牧野三つ柏を掲げています。
●足柄門(総門)
街道に面した山門は1596年仏石秀久が造立し、もともと小諸城の足柄門でしたが、1765年再建、明治初年に移建されたものです。
この門は、正面両側の柱に小さな屋根が乗っている高麗門の形式です。
●楼門(山門)
1716年開扉。奉安仏は、釈迦如来、文殊菩薩及び十六羅漢。
楼門は旧小諸城下ではひとつしかない2階建ての門で、2階には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
●庭園
四季折々の表現に富み、長い歳月によってもたらされた美しさをかもしだす庭園。その心字池を囲む百日紅一本は、小諸市指定保存樹木。
●仏画
恵心筆の阿弥陀如来像、阿弥陀如来図、三尊来迎図の3点があります。
●寺格
「浄土宗佐久郡触頭」として、神社奉行からの触(布令)を配下寺院に伝えたり、寺院の訴願を取り次ぐ役寺でした。
●末寺
「来迎寺」佐久市中佐都
「日照山観音寺」北御牧村大日向。木造阿弥陀三尊像は県宝。
●小諸藩主牧野氏累代の菩薩寺泰安寺
1870年光岳寺に合併され、鎮守を稲荷大明神とし、本尊は阿弥陀三像坐像。
●日向吉次郎翁記念碑
小諸で活躍した能楽師。その様子は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」にも書かれた。没後その弟子らと藤村が記念碑を建立しました。
●棊伯鈴木善人翁之壽碑
小諸で活躍した囲碁師。圍碁普及に熱情を注いで、明治21年(1888)専心致志の功5段に達ました。
近年、日本棋院発行の「囲碁未来」10月号にて紹介され、2010年には『鈴木善人翁の足跡 : 本因坊門下の逸美 : 囲碁の里・信州小諸』(鈴木翁之壽碑顕彰会)が発刊されました。
「鈴木翁は文政11年(1828)、幕臣栗田氏を父に江戸牛込に生まれる。幼にして圍碁を好み水谷琢順に師事、井上因碩、本因坊丈策等の門に入り13才初段、17才4段と天分を発揮す。14世本因坊秀和は師父なり。25才の時、尾州藩圍碁役鈴木丈清を嗣ぎ鈴木と改姓す。
文久3年(1863)、妻子を伴い信州に入る。明治初年、小諸海應院碧落庵に居住。清貧に安んじ、圍碁以外其の心を動かすに足りるもの無きが如く棋道深奥を求め、善誘悃篤、圍碁普及に熱情を注ぐ。明治21年(1888)専心致志の功5段に達す。これ現代の9段以上に相当せり。
明治27年(1894)、長野県知事浅田德則、有志者、門生等、翁の66歳を記念、この壽碑を建立す。
この碑に隣接せる島崎藤村撰文碑の主人公、喜多流能楽師日向吉次郎は翁と同じく小諸にありき、名人同士心相通ぜしならん。
明治32年(1899)1月30日、翁その生涯を全う、当寺に葬る。後に信濃毎日新聞、翁が直接圍碁指導せし小諸義塾々長木村熊二氏の談により、翁を「信州の奇傑」と讃う。
それ壽碑何するものぞ。この地に輝く圍碁の篝火。
鈴木翁之壽碑顯彰會
社團法人新町和合會」
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